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 祖父が亡くなった。

最後に会ったのは今年の1月の病院。コロナ禍の入り口であったため、何か少しのズレが起きたらきっと会えなかっただろう。同じ日に、祖母の施設の面会はすでにできなくなっていた。

 

 一連の葬儀には僕は出席しない。基礎疾患持ちであることに配慮をしてもらった形だ。個人的な信条でもあまり葬儀というのが好ましくはないのだが、今回はたまたま別の理由があった。手紙の代わりに似顔絵を描いて母に渡した。昨今追悼絵が(もちろんいろんな理由があって)SNSで批判されるが、言葉を得意としない絵描きはこれが最も追悼の想いを伝えられる。

 

 車で公園などにたくさん連れて行ってくれたもう片方の祖父と違い、僕の記憶の中での母方の祖父は、いつも茶の間の炬燵の定位置にどっしりと構えていた。

 

 僕は母方の実家でいろいろと怒られたことがたくさんあったため、緊張しながら毎度帰省していたが、祖父に関してはあまり怒られた記憶はない。そのかわり(入院するまで記憶がある程度しっかりしていたので)僕の反抗期が終わったあたりからはいろんな昔話をしてくれた。2017年の秋、ふと思い立ってメモ帳とボイスメモを使ったおかげで、その話の一部が残っている。

 

 話好きな祖父だったらしく、母は「おじいちゃんの話をそんな真面目に聞いてたのは貴方だけだよ」なんて言っていたので、僕と祖父の思い出は、そういう昔話を聞いたこととなる。

 

 11月の15日の鉄腕DASHで、田んぼの話が出て、そういえば母の実家には田んぼがあったなと思い出し、19日の木曜日、三浦春馬がきっかけで母と毎週見ているせかほしの後にGoogleマップを使いながら田んぼや畑を探し思い出話をしていた。

 

 20日、親友と神保町で飲んだ帰りに、13年ほど前に父方の祖父母が亡くなった東京医科歯科大学の前の道を歩きながら父方の祖父母の話と、今も頑張って生きている祖父の話をして、今亡くなったら寂しいから、もう少し頑張って生きててほしいなぁなんてことを話していた。酔っていたから口が滑りに滑った。成人式でカッコつけて買った細身の黒スーツ、ズボンがもう履けないから喪服に使えないし、そういう意味でも長生きしてほしいなんて冗談を交えていた。

 

 その日の深夜に亡くなるなんて知らなかった。

 ちょっといい買い物をした帰りだったので帰宅途中で楽しみながらその戦利品を眺めていた矢先の母からの知らせで、最初は混乱するあまり「企画してた年賀状、出せないじゃん」とかも頭によぎりながら、母のLINE自体も混乱してるなぁ、なんて、変な感覚な中で変なことを察していた。

 

 13年ぶりの身内の葬儀のために家族は慌ただしく動いていて、邪魔にならないように僕は元あった予定以外は部屋にこもっていた。

 

 入院するまで祖父が長男に隠れてこっそり吸っていたechoはもうない。認知症がひどい祖母はコロナ禍を理由に施設からストップがかかって葬儀に出席できない。出席できたとしてどの程度認識できるのだろうか。僕にはわからない。

 

思いのままに打ったので構成を一切考えていない。今はただ、慣習的なものでない僕なりの追悼をするしかない。これもその一つ。付き合わせてしまってごめんなさい。